エール

私のピアノレッスンに通っている生徒さんの中に、今春、中・高校や大学に入学した学生達がいます。

コロナ禍の影響で、それ以前のような学校生活が送れないのは、どの学生も気の毒ですが、不安な受験期を経て、新入生になってもスッキリしない日々は、抱いていたであろう夢や希望が萎えてしまっているのでは…と案じます。

彼らには沢山の可能性を信じ、自分を生かせる軸を見つけて、素晴しい未来を拓いて欲しいと思います。

そして、音楽がいつも傍らにあって欲しいと願っています。

ピアノを専門とする人も、趣味や特技として楽しむ人も…

 

これまで音大、芸大に進学した学生たちもいますが、その中で、ふと思い出すひとり…

もう直接的な親交はないのですが…

彼=A君は元々クラシック音楽の好きな20歳位の社会人でした。

容姿の整った長身で黒系の洋服のイメージが残っています。

どんな職種か聞いたことはありませんが、仕事の合間を縫って日々コツコツとピアノの練習に励み、関西有数の大きな合唱団組織にも所属して、その機関紙に持ち前の熱意と博識を生かした記事や曲目解説を連載しているような音楽大好き人間でした。

私のコンサートの際には、いつもきちんとした文体の感想を綴った便りが届いていました。

なので私も「いつかコンサートのパンフレットに解説を書いて欲しいな。」などと話していました。

 

ある時、「今度、フランスにひとり旅し、美術館巡りしてきます。」と言うので、思わず「ルーヴルとか?」と安易に返答した私に、口には出さないけれど「そんなミーハーじゃないよ。わかってないなぁ…」と言うような表情で「いえ、そうではなくて…」と静かに笑っていました。

また、私が交通事故で片手を痛め、包帯をしていた日、レッスンを受けた後にまたフラッと戻ってきて「先生、これでも聴いて下さい。」とCDを購入し見舞ってくれました。

「手が動かせないから、ピアノの曲だとイライラするかも知れないから…」と気遣い、ヴァイオリンやオーケストラのアルバムを数枚選んで…心憎い奴です!

 

そんな誠実でシャイな生徒でしたが、数年後、ある芸術大学を受験、今までに見せたことのないような飛びきり明るい笑顔で合格の報告してくれました。

大好きな芸術、音楽に囲まれた大学生活を満喫しつつ、私のレッスンにも来ていましたが、数ヶ月後に病気で入院、休学に。

私も大変残念でした。その間、ご家族から「本人は、先生のピアノレッスンは絶対続ける、必ず伝えて!と言っています。」と何度かご連絡を頂き、その言葉通り復帰してきました。

しかし、後遺症で思うように動かない指…薬の影響で容姿も少し変わっていました。

懸命に努めていましたが、やがて大学を退学。

それでも「先生、こんなんでも頑張りますから。」とレッスンは続け、テンポの緩やかなバッハの小品などに取り組んでいました。

しかし或る日、「やっぱり僕、ピアノ、無理みたいです。」とポツリ…

頭ではわかっているのに、指が上手く動かず、歯がゆかったと思います。

 

それから半年程経ったでしょうか、何を思ったのか突然やってきたのですが、生憎レッスン中でちゃんと話すこともできず、帰って行きました。

また少し経ったある日、今度は遅がけに「先生、レッスン終わりましたか?ご飯でも食べに行きませんか?」と財布を握って声をかけに来てくれました。

「僕がご馳走しますから!」と口には出さないけれど、積極的な行動に戸惑い、やはり事前に連絡がなかったので、少し言葉を交わしただけで、断ってしまいました。

 

そしてその夏の終わり、A君にもコンサートの案内を出すと、すぐに申込がありました。

そして公演終わり、それまでなら何らかのメッセージを寄せてくれるのに、ずっと音沙汰がないので、気になって電話してみました。

すると、ご家族が出られ「先生ですか? Aは先日亡くなりました。先生のこと、ピアノのこと…日記に書いていました。自ら死を選び…」と告げられ、言葉を失いました。

 

A君ご一家はクリスチャンで、1ヶ月後のキリスト教式の法要に呼んで頂き、彼を皆で偲びました。

「哲学にも傾倒しキリスト教の信仰との間に苦悶、葛藤していたこと」「入院前はヴァイオリンにも挑戦していたが、ピアノもまだまだなのに、恥ずかしいから先生には言わないで欲しいと言っていたこと」など、色々とご両親やお姉さんから伺いました。

A君が、私を訪ねて来てくれたあの日、耳を傾けることを逸してしまった…と強く後悔しました。

けなげに財布を握り締めて訪ねてくれた時、彼はどんな思いでいたんだろう?

何気なく、ふと思い出して立ち寄ってくれたのだろうか?

何事も一期一会と思いながら、流されていく自分に情けない思いでした。

 

A君の心の内は彼自身にしかわかりません。

でも、A君のような生き方、人生もあることを教えてくれました。

生徒さんを指導する中で様々な学びがありますが、彼の足跡は深く刻まれ、私の勝手な思いですが、私にも今いる生徒さんたちにも、「挫けず踏ん張って!」と天上からエールを送ってくれている一人だと言う気がしてなりません。